音楽、編集、衣装、美術、撮影……ハリウッド最高の達人たち、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル組が結集した『バビロン』の作り方

音楽、編集、衣装、美術、撮影……ハリウッド最高の達人たち、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル組が結集した『バビロン』の作り方

デイミアン・チャゼル監督『バビロン』には、チャゼルと『セッション』や『ラ・ラ・ランド』で組んで、アカデミーなど数々の映画賞を受賞した「チャゼル組」が結集した。しかし、『バビロン』は、エンドクレジットに名前が出る俳優だけで400人以上のメガトン級の超大作だ。しかも、すべてのシーンがミュージック・ビデオのように音楽とシンクロしている。この怪物のような作品をいかに生み出したか、スタッフに直接インタビューしてみた。



★1920年が舞台だけど、“今”の映画にするんだ

 まず最初に、デイミアンは「チャゼル組」にある共通の目標を掲げた。それは、1920年代が舞台だけど、“今”の映画にしよう、ということ。

 デイミアン・チャゼルの『セッション』の編集でアカデミー賞を受賞したトム・クロスは語る。

クロス:「サイレント映画に敬意を払いながらも決して古臭くはしない、それが目標として撮影、編集、音楽、衣装、美術、その他すべてのセクションに通達されました。時代物の映画に対する観客の予想を裏切るためです。僕がデイミアンとやった『セッション』みたいな、常識の枠を出た現代的なエネルギーが欲しかったんです」

 音楽のジャスティン・ハーウィッツも、同じ「目標」を目指した。ハーウィッツはデイミアン・チャゼルとハーヴァード大学でルーム・メイトになって以来の親友で、チャゼルの映画にずっと音楽をつけ続け、『ラ・ラ・ランド』(2016年)でアカデミー作曲賞、主題歌賞を受賞した。今回、ハーウィッツは、あえて1920年代のレコードを参考にしなかったという。

ハーウィッツ:「一切聴かないようにしました。だって、当時のレコードってチャールストンとか、そんなんでしょ? そんな音楽作りたくない。いろんな映画で聴いてきたから知ってるし。古臭くて。僕らはもっとアグレッシヴでワイルドな音楽にしたかった」

 衣装についても同じ。『華麗なるギャツビー』など、1920年代を舞台にした映画では、必ず、寸胴の「フラッパードレス」が登場する。しかし、それは『バビロン』には登場しない。衣装デザインはマリー・ゾフレス。『バビロン』でアカデミー賞にノミネートされている。

ゾフレス:「『バビロン』では意識して、フラッパードレスを使わないようにしたんですよ。デイミアンが、普通の1920年代映画にはしない、と言ったからです。つまり『華麗なるギャツビー』みたいにはしない、と。デイミアンは1920年代のロサンジェルスについて調べて、アンダーグラウンドなカルチャーが隠されていたことを発見しました。それは優雅な『華麗なるギャツビー』とは正反対のクレイジーな世界だったんです。そこで私がデザインしたのが、ネリーが着てくる真っ赤なドレスのような衣装なんです」


★まず音楽ありき

 チャゼルが『バビロン』の脚本を書き上げた後、まず最初の作業はハーウィッツが音楽を作ることだった。

ハーウィッツ:「撮影が始まるだいぶ前、デイミアンが脚本を仕上げるとすぐに僕が作曲に取り掛かりました。僕の作ったデモを聴いて、デイミアンが全ショットのストーリーボードを自分で描いて、リズムに合わせてカットを割って、撮影では最初から音楽に合わせて俳優が動き、音楽に合わせてカメラを動かしました。最初からそうデザインしたんです」

 『バビロン』はほとんどすべてのシーンが音楽によって駆動しているので、ミュージカルだった『ラ・ラ・ランド』以上にミュージカル的だ。

ハーウィッツ:「音楽の量が多いですから。『ラ・ラ・ランド』のオリジナル音楽は1時間だけど、『バビロン』は合計で2時間を超える。2倍以上です」

 先に音楽を録音しただけで終わりではない。実際は2度、音楽を作った。

「『バビロン』の音楽は、劇中のバンドが生演奏する音楽として聴こえ始めることが多いんです。だから撮影前に音楽を作って、バンド用にアレンジする必要があります。しかし、その音楽はシーンの中で、いわゆる劇伴、画面外の効果としての普通の映画音楽に移行します。だから、僕は映画の撮影と編集が終わった後で、今度は通常の映画音楽をつけなければなりません。『セッション』も『ラ・ラ・ランド』も同じ方式だったんですが、僕は映画製作の最初と最後に仕事があるわけです」


★1920年代は女性服の革命時代

 

 撮影に入る前に衣装も必要だ。

ゾフレス:「『バビロン』のために作った衣装は数千着です。劇中の戦争映画撮影シーンの衣装だけで千着くらいですから。それを作るためにロサンジェルス中の職人さんに発注しましたが、とても足りなくて、アメリカ全土に人手を求めました。ニュージャージーからテネシーのノックスビルまで。それでも、あまりに量が多いので撮影までに間に合わなくて、撮影に入ってからも12週間、撮了の日まで、ずっと衣装を作り続けてたんです」

 ゾフレスは『バビロン』のため1920年代の衣装の研究だけで一年以上を費やした。

ゾフレス:「1920年代は、服飾史的に実に興味深い時代です。特に女性のファッションは。

 1910年代まで、英米の女性はコルセットで腰を縛られ、スカートは足首までの長さ、ブラウスの袖は手首、襟は顎の下まであって肌を完全に隠していました。いわゆるヴィクトリア朝スタイルです。

 ところが、1920年代に突然、コルセットどころかブラジャーもつけず、肩やひざを出したドレスで公の場に出られるようになったんです。たとえば『バビロン』でネリー(マーゴット・ロビー)はブラジャーをつけていません。それは、ネリーのモデルになった女優の一人、クララ・ボウが本当にブラジャーをつけない人だったからです。

 大変な地殻変動ですよ。その熱狂、その解放を『バビロン』から感じてほしいんです。

 女性のファッションは突然エキゾチックでセクシャルになりました。お酒だけじゃなく、ドラッグも嗜み、人々がクレイジーになったのは、それまで押さえつけられていた反動です。

 それにハリウッドは生まれたばかりの街でした。オレンジ畑以外には何もない地域も多かった。そこに映画産業ができて、全米から人が押し寄せました。まるで“るつぼ”です。あらゆることが起こりました。

 でも、その後の時代になると女性は再びブラジャーをつけてガードルをつけて、きちっとした服装をするように戻ります。つまり1920年代は、抑制の時代と抑制の時代の間に挟まれた、あまりにも特異な自由の時代でした。それを『バビロン』は描いているんです」


★ハリウッドが荒野だった時代

 

 衣装と音楽、さらに必要なのは美術(セット・デザイン)。『バビロン』には150ものセットが必要だった。

 担当したのはフローレンシア・マーティン。ポール・トーマス・アンダーソン監督の『リコリス・ピザ』で1970年代ロサンジェルスを再現した彼女が『バビロン』のために最初にしたのは、何もない風景を探すことだった。

マーティン:「『バビロン』は1920年代ハリウッドの、何もない荒野から始まります。実際、当時の写真を見ると、果樹園以外には何もなかったんです。だから、それを探しました」

 主人公マニーはその荒野から丘をどんどん上がって、頂上にある映画プロデューサーの城にたどり着く。その古城のような建物のなかでは酒池肉林のパーティが行われている。

マーティン:「新聞王ハーストが愛人マリオン・デイヴィスのために建てたハースト・キャッスルのような城、ヨーロッパのゴシック・ホラーのような城を探して、『シアの城 Shea’s Castle』を見つけたんです」

「シェイの城」はハリウッドから自動車で北に一時間ほど走った荒野に立つ石造りの古城風の屋敷。1924年に大富豪リチャード・ピーター・シェイが建造したが、1929年の大恐慌で彼は財産を失い、自殺した。

マーティン:「城の内部はロサンジェルスのダウンタウンにあるユナイテッド・アーティスツの映画館だったエース・シアターで撮影しました」

 映画会社ユナイテッド・アーティスツ(芸術家組合)は、その名の通り、映画俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、それに映画監督のチャーリー・チャップリンとD.W.グリフィスが共同出資して1919年に結成した。そのユナイテッド・アーティスツの新作をお披露目するメイン劇場として1927年にエース・シアターは建造された。当時のアールデコのインテリアが歴史的美術品として保存されている。


★狂乱のパーティ

 ドラキュラでも住んでいそうな城の中ではバンドが演奏する熱狂的なビートと、酒池肉林の饗宴が。この現代的な音楽を作曲したハーウィッツはこう言う。

ハーウィッツ:「僕らはこう考えたんです。現在1920年代の音楽としてレコードが残っているものは、1920年代当時の音楽のほんの一部だけに違いない。パーティでバンドが演奏していた音楽はもっとワイルドだったかもしれない。ドラッグをキメてリミッター外したプレイをしただろう。それは、後のロックンロールみたいな強烈な音楽だったんじゃないか?って」

 さらにパーカッションをジャングル風にした。

「アフリカンとラテンのパーカッションを加えました。20年代の人々はエキゾチックなものに惹かれていたんですよ。たとえばハリウッドにエジプシャン・シアターとかチャイニーズ・シアターがあるように、当時の人々はアフリカやアジアに興味津々でした。だから僕らはエキゾチックなパーカッションを入れてみたんです」

 そのビートに合わせてカメラはパンし、カットも切り替わる。パーカッシブに。編集のトム・クロスはこう言う。

クロス:「最初のパーティシーンにデイミアンはやかましいほどのエネルギーを求めました。観客をガッチリつかんで映画に取り込むため、冒頭から爆音で、無軌道なスピード感でぶっ飛ばして、カメラもガンガン動いて、編集もテンポよくメリハリ効かせて、力づくで観客を映画に引き込もう、それがデイミアンの狙いでした」


★音楽だらけの撮影セット

 マニーとネリーは初めてハリウッドの映画撮影所を訪れる。美術監督のフローレンシア・マーティンは何もない荒野にオープン(野外)スタジオを建設した。

マーティン:「それがハリウッドの始まりです。当時はサイレント映画ですから、防音は必要なかったんです。照明は自然光だし」

 各セットの間に仕切りはない。ラブストーリーの横で戦争映画が撮影されている。カメラが回っているのに監督は大声で怒鳴っている。そればかりか各セットにバンドが入って勝手に音楽を演奏している。これは事実だと、音楽のジャスティン・ハーウィッツは言う。

ハーウィッツ:「撮影のムード作りのために。撮影セットそれぞれが違う音楽を演奏してたんです。こっちではピアノでラグタイム、こっちでサーカスのジンタ、みたいに。『バビロン』ではネリーが各撮影セットの前を通っていく間、違う音楽が次から次に聞こえてくる。だから、それぞれに違う音楽を作りました」

 十字軍の戦争映画撮影セットでオーケストラがムソルグスキーの「はげ山の一夜」を演奏するのは、ある有名な映画からヒントを得たと、編集のトム・クロスは言う。

クロス:「デイミアンは本当に映画オタクでね。僕もそうだから、いろんな映画を手本に話し合うわけです。十字軍の戦闘シーンは『地獄の黙示録』(1979年)でワーグナーの『ワルキューレの騎行』を流したのを参考にしました。あと、笑うところでは、『モンティ・パイソン・アンド・ホールグレイル』(1975年)もね(笑)。あらゆる映画から学んでます」


★『イントレランス』と『ブギーナイツ』

 この撮影セットのシークエンスでは、初めての映画撮影に挑むネリー、超大作の十字軍映画を撮影するジャック、日が落ちるまでに自動車でカメラを借りてこなければならないマニーの3人のドラマがクロスカッティングで同時進行する。編集のトム・クロスに、デイミアンはサイレント映画を参考にするよう言ったという。

クロス:「クロスカッティングの方法は、D.W.グリフィスの『イントレランス』(1916年)が最も参考になりました。数百人のエキストラを使った戦争シーンは、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』(1924年)やエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925年)を参考にしました。デイミアンは『ここを切ってつないで。エイゼンシュタインみたいに』って言うんですよ。つまりエイゼンシュテインのようにまったく違うカット同士が激突するような強烈なモンタージュを求めたんです」

 ただ、サイレント映画と違って音楽に合わせてフィルムそれ自体がダンスするように編集した。多人数のキャラクーのドラマを同時進行させるテクニックでは、もっと新しい映画を参考にした。

クロス:「ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』(1997年)の影響は大きいですね。キャラクターの登場のさせ方やアンサンブルの作り方を。キャラクターたちが絡み合う群像劇ということでは、ロバート・アルトマンの『ナッシュビル』(1975年)に学びました」


★ハリウッドの王の凋落

 ブラッド・ピットはサイレント時代の大スター、ジャックを演じる。「ハリウッドの王」とでもいうべきジャックの威厳を表現するため、衣装デザインのマリー・ゾフレスは生地にもこだわった。

ゾフレス:「ジャックの衣装は、英国製のウールの生地で作りました。当時使われていた、すごく厚く重い生地を使ったので、仕立てるにも特殊な技術が必要でした。でも、その生地が、ジャックの自信たっぷりの、余裕に満ちた、“ハリウッドの王”らしさを作り出しています」

 そんなハリウッドの王にも、トーキーの登場と共に王座を去るべき時が来る。自分の時代の終わりを受け入れるブラッド・ピットの笑顔が悲しい。その時、ホテルのバンドが奏でる音楽も甘く切ない。

ハーウィッツ:「シナリオを読んだ時点で、あのジャックの場面こそはこの映画の最も大事な瞬間だと認識してました。どんな音楽にするべきか? どんなメロディにすべきか? それはビター・スイートな(甘く苦い)音楽であるべきだと決めました。ジャックの映画人生は素晴らしく、同時にまた悲しいから」

 最初は壮大なスケールと豪華絢爛のセット、ジャズの喧騒で始まる『バビロン』は、後半、暗闇に向かって落ちていく。

クロス:「それはデイミアンの狙いどおりです。彼はひとつの映画のなかで、スタイルやトーンをどんどん変えていこうとしました。スケールの大きな映画には、こうしたトーンの変化、スタイルの変化が必要なんです。最初は笑いで観客をつかみ、その後で暗闇に連れて行くんです。

 最初、ブラッド・ピット扮するジャックはコミカルでしょ? 豪邸のバルコニーで『ハリウッドは魔法のような所だ』と言ってバルコニーから落ちるのは完全にコメディです。でも、映画が進むに従ってジャックはだんだん暗くシリアスになり、最後にジャックは同じ『ハリウッドは魔法のような所だった』というセリフを言いますが、今度は、悲しく、意味深く、心に刻み込まれるように聞こえるんです」


★壊れたピアノ

 それはまるでサーカスのように、滑稽で物悲しい。そのサーカスっぽさを出すため、ハーウィッツは音楽にメロトロンを使った。アナログのテープで音をサンプリングする機械だ。

ハーウィッツ:「メロトロンでフルートをサンプリングして使いました。ビートルズがサーカスの歌で使っていたでしょう?『ファーストマン』のようにテルミンも使いました。テルミンは1920年代に発明されたんですよ」

 マニーとネリーが一緒にいるシーンでは毎回「マニーとネリーのテーマ」が流れる。その曲は最初に流れる時は美しく流麗だが、しかし、後半では寂しい響きになっている。

ハーウィッツ:「あれには3つの音色の違うピアノを使いました。一つは普通に綺麗な音が出るスタインウェイのグランド・ピアノ。2つ目は小さなピアノで、弦を叩くハンマーに小さな画鋲を刺した。だからちょっとノイズが出るプリペアド・ピアノ。しかも、ちょっとチューニングが狂ってる。そして3つ目はチューニングの完全に狂ったアップライト・ピアノ。その3つのピアノのブレンドのさせ方で、マニーとネリーがだんだん壊れていくのを表現したんです」


★映画史に感謝をこめて

『バビロン』は空間的にも変化する。最初は広々とした荒野、巨大な古城、それに広大な屋外撮影スタジオで始まるが、だんだんと狭い空間に押し込められていく。トーキー用のサウンドステージ、地下のダンジョン、そして最後は映画館……。

クロス:「それは最初から脚本に書かれていました。マニー一人で始まり、スケールの大きなパーティで登場人物が全員集合し、それぞれが成功し、また一人ずつ消えていき、最後にマニー一人が残ります。マニーは観客の代理です。マニーの目を通して観客はハリウッドという異世界に投げ込まれ、パノラマを経験し、最後はまたマニーは一人に戻り、映画の観客に戻るという構成になっています」

 フィナーレでは映画史上重要な映像が50本も一気に引用される。これは脚本には無く、最後の編集段階で新たに加えられたアイデア。

クロス:「僕はデイミアンと一緒に使う映像を選びました。使用許可を取るのにプロデューサーが頑張ってくれました。監督たちは協力的でした。スティーヴン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンはすぐOKくれましたね」

 そこで赤や青のインクの水煙が映る。

クロス:「あれはネリーが出演したサイレント映画のフィルムを染めているんです。カラー映画のない時代、白黒フィルムを染めていたんです。たとえば夜のシーンを青く染めたり、日差しの強いシーンではオレンジ色に染めたりしてたんです」

『バビロン』は本当に様々な映画史の知識に基づいた映画だ。

クロス:「僕もデイミアンもハリウッドの歴史を知るのが大好きなんですよ。本当に興奮します。でも、同時に謙虚な気持ちにもさせられます。私は幸運にもハリウッド映画の編集者になれたけど、映画史に対しては小さな貢献だから。映画史は僕らに比べるとあまりにも巨大で。そこに少しでも参加できただけで、感謝で胸がいっぱいになるんです」


★映画への情熱なら負けない

 同じハリウッドの夢を描きながら、『ラ・ラ・ランド』とはまったく違う『バビロン』。だが、音楽では一瞬だけ『ラ・ラ・ランド』のあのリズムが聴こえる。

ハーウィッツ:「僕のタッチを聞き分けてくれてうれしいです。作曲家には作曲家のタッチがあります。ジョン・ウィリアムズにもジョン・ウィリアムズ・タッチがあるように。でも、自分のコピーを繰り返さないように気をつけないと。自分独自のサウンドを目指しながらもね。そこは微妙な綱渡りですね」

 ハーウィッツは今まで、デイミアン以外の監督と組んだことがない。今後はどうなるのだろう?

ハーウィッツ:「僕とデイミアンとの関係は特別なんです。いい監督といい企画があればやるかもしれないけど、それを待つよりも、デイミアンの次の脚本ができるまで、自分はコンサートに専念したい。デイミアンがどんな企画をしても僕はそれに身を捧げます。彼が映画を作り続ける限り僕は彼のために働くつもりです」

 まるでセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネ、いや、フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータの関係のようだ。

ハーウィッツ:「それは畏れ多いですよ。ニーノ・ロータやモリコーネは何百もの映画音楽を書いて、しかも傑作ばかりだけど、僕はまだ4本です。でも、僕らは情熱なら負けない。僕らはとりつかれたように仕事をする。毎回、自分が持っているすべてを捧げるんです」

イット・ガールはなぜいつでも泣けたのか『バビロン』のネリー(マーゴット・ロビー)のモデル、クララ・ボウとは誰か

イット・ガールはなぜいつでも泣けたのか『バビロン』のネリー(マーゴット・ロビー)のモデル、クララ・ボウとは誰か

『バビロン』でマーゴット・ロビーが演じる女優ネリーは、いつでも泣ける天才的な演技力を持ち、くしゃくしゃの天然パーマで、いつもノーブラ、悲惨な育ちなど、実在の女優クララ・ボウをモデルにしている。


 クララ・ボウは、サイレント映画時代のハリウッド最大のセックス・シンボルだった。1922年に16歳で映画デビューし、1929年までの7年間にサイレント映画46本に出演。その主演作のほとんどをヒットさせた。大きなタレ目の愛らしいルックスを基にしてフライシャー兄弟のアニメ・キャラクター、ベティ・ブープが描かれたという。

 クララ・ボウの代表作は27年の『あれ』 (原題: It)。It(イット)とは、原作・脚色・製作のエリノア・グリン(注)によると「異性を惹き付ける魅力」のこと。『あれ』は、高級デパートの経営者が「It」を持つ女性を探し求め、デパートの売り子(クララ・ボウ)が見つけ出される、というシンデレラ・ストーリー。『あれ』の大ヒットでクララ・ボウは「イット・ガール」と呼ばれ、それ以降、ハリウッドでは、その時代その時代のセックス・シンボルを「イット・ガール」と呼ぶようになった。

 クララ・ボウの得意とした役柄は「フラッパー」だった。フラッパーとは1920年代に登場した自由な生き方をする女性のこと。彼女たちはそれまで女性に押し付けられていた保守的なモラルを打ち破った。

 1900年代まで、英米の女性は「ヴィクトリア朝的」といわれる保守的で禁欲的なスタイルを強いられた。教会では女性には性欲はないと教えられ、襟は顎の下まで、袖は手首まである服で肌の露出を徹底的に隠し、しかもコルセットでウェストを細く絞り、骨組みのあるスカートの下には何重にもペチコートをはいた。そんな格好ではスポーツもダンスもできない。女性はただ家事だけをして、家で夫の帰りを待った。酒や煙草などもってのほかだった。

 しかし、1910年代、工業化によって生産効率が上がり、資本主義が拡大し、庶民の平均収入が急上昇した。特にアメリカのGDPはイギリスを抜いて世界一になり、株価は高騰、未曾有の好景気に人々は浮かれ、連日連夜パーティを楽しんだ。そんな1910年代はギルデッド・エイジ(金ピカ時代)と呼ばれた。

 それに対する反動でアメリカでは1920年に禁酒法が成立。しかし、それがかえって禁じられた快楽として飲酒の人気が増し、アメリカ中にスピークイージー(モグリの酒場)が乱立し、パーティは続いた。そこでは野蛮で猥褻な黒人の音楽として禁じられたジャズが演奏され、人々は教会で禁止された、腰をふるダンスを踊った。そんな20年代をロアリング20S(狂乱の20年代)と呼ぶ。

 そんな20年代のパーティで酔って踊る女性たちがフラッパーだ。ヴィクトリア朝の長いスカートもペチコートもコルセットも脱ぎ捨て、ノーブラの上に膝くらいまでの丈でノースリーブのドレスを着た。これはフラッパードレスと呼ばれた。女性の命といわれた長い髪をバッサリ切り落としてショートボブにした。

 クララ・ボウはそんなフラッパー・ガールを陽気に演じて人気を集めた。しかし、後にクララ・ボウはこう語っている。

「笑って踊るフラッパーの笑顔の下には悲劇の感情が潜んでいます。彼女は不幸で、この世に幻滅しているんです」

 クララ・ボウは演技の天才だった。泣くシーンではいつでも涙を流すことができた。

「泣くのは簡単。子供の頃を思い出せばいいから」

 クララ・ボウはニューヨークのブルックリンの貧しい家庭に生まれた。父はアルコール依存症で、何年も失業状態だった。クララ・ボウは私生活でもブラジャーをめったにつけないことで野生児とも言われたが、それはあまりの貧しさゆえに、子供の頃はほとんど裸同然で育てられたからだった。

 母は精神病となり、ある日、肉切り包丁でクララの喉を切ろうとしたことで、精神病院に収監され、そこで亡くなった。酒浸りの父はクララをレイプした。

 そこから脱出するために、クララは芸能界を目指した。過酷な環境から自分自身を守るため、幼い頃から周りの大人が求めるようにふるまううちに、どんな演技もできるようになった。

 トーキーの時代になって、クララ・ボウもパラマウント映画で初のトーキー映画として30年に『底抜け騒ぎ』(原題: Wild Party)という学園コメディに出演した。『バビロン』でネリーが初のトーキー映画で苦労する場面は、実際に『底抜け騒ぎ』の撮影現場で起こったことを実際にパラマウント映画の撮影所で再現している。

 それを演出する女性監督ルース・アドラーは実在の女性監督ドロシー・アーズナーをモデルにしている。アーズナーはハリウッド初の女性監督で、レズビアンだった。彼女の監督作品は女性の自由な生き方を描いており、フェミニズムの視点で再評価されている。この撮影中、ブーム・マイクが発明されたという。釣り竿のようにしてマイクを吊り下げ、俳優のいる位置を上からおいかける道具だ。

 サイレントからトーキーへの移行で、多くの俳優がセリフの下手さ、声の悪さで人気を失ったが、クララ・ボウは見事なセリフ回しを披露した。しかし、やはり1930年代に急激に下り坂を転げ落ちていった。

 狂乱の20年代、フラッパーの時代が終わったからだ。

 1929年に株価が暴落して、大恐慌時代が始まった。失業率が3割を超え、パーティどころではなくなった。自粛、緊縮ムードが広がり、ハリウッドでも長年批判されていた自由奔放な性描写を抑えるため、ヘイズ・コードという自主倫理規制が始まる。

 自分の時代が終わったと察したクララ・ボウは結婚して引退し、田舎に引きこもった。

 1944年、夫は下院議員に立候補したが、クララは自殺を図った。彼女の精神状態はどんどん悪化していった。1949年には精神病院に入り、統合失調症と診断された。幼い頃、母と父から与えられたトラウマが原因と思われた。その後、クララは独りでひっそりと暮らし、60歳で亡くなった。それは1965年、かつてのフラッパー・ドレスのようなミニスカートとショートカットが世界的ブームになる直前だった。

(注:『バビロン』でジーン・スマートが演じるエリノア・セント・ジョンのモデル)

サイレント映画と共に去った男、ジョン・ギルバート『バビロン』でブラッド・ピットが演じたスターの栄光と悲劇

サイレント映画と共に去った男、ジョン・ギルバート『バビロン』でブラッド・ピットが演じたスターの栄光と悲劇

『バビロン』でブラッド・ピットが演じるハリウッド・スターのジャック・コンラッドは、ジョン(愛称はジャック)・ギルバート(1897―1936)をモデルにしている。ジョン・ギルバートはMGMのサイレント映画『メリー・ウィドー』(1925)、『ビッグ・パレード』(1925)、『ラ・ボエーム』(1926)でロマンチックな二枚目を演じ、当時の美男スター、ルドルフ・ヴァレンチノと共に世界中の女性観客を熱狂させた。


 特に『肉体と悪魔』(1926)、『アンナ・カレーニナ』(1927)、『恋多き女』(1928)で共演したグレタ・ガルボとは私生活でも愛し合い、絶世の美男美女カップルと呼ばれた。

 しかし、1927年にトーキー(音声映画)の『ジャズ・シンガー』 が登場すると、ギルバートの人気は失墜する。

 ジョン・ギルバートを主人公のモデルにした映画は、『バビロン』以前に2本ある。ひとつは2012年のアカデミー作品賞に輝いたフランス映画『アーティスト』(2011年)。舞台は1927年、ジョン・ギルバートをモデルにしたサイレント映画スター、ジョージ・ヴァレンティンは資材を投げ売ってサイレント映画の大作を作るが、トーキー映画に夢中の観客には見向きもされず、すべてを失う。

 もうひとつは『雨に唄えば』(1952年)。やはり舞台はトーキー出現の1927年。サイレント映画のスターだったドン(ジーン・ケリー)は、セリフのコーチを受けながら初めてのトーキー映画『決闘する騎士』に出演するが、ひどいシナリオのせいでうまくいかない。一般客を呼んでテスト試写すると、ドンが相手役のお姫様の腕にキスしながら「アイ・ラブ・ユー、アイ・ラブ・ユー」と繰り返すシーンで観客の大爆笑が起こってしまう。

 これは実際にジョン・ギルバートのトーキー映画『彼の栄光の夜』(1929年)で、彼が「アイ・ラブ・ユー」を繰り返しながらキスするシーンで観客の爆笑が起こった事実を元にしており、『バビロン』では、ブラッド・ピット扮するジャックが映画館で自分の演技に爆笑する客を目の当たりにしてショックを受ける。

 ジョン・ギルバートがトーキーで急に人気を失った理由には諸説ある。

 一般的には、彼の声が甲高くてハンサムな見た目に似合わなかったから、と言われている。しかし、現在、彼のトーキー映画の多くはYouTubeで観ることができるが、彼の声は別に高くない。

 もうひとつの理由はMGMのCEOだったルイス・B・メイヤーに干された、という説。メイヤーに侮辱されたギルバートが彼を殴ってしまったので、ひどいシナリオを回されたり、録音した声のピッチを高く変えられた、という。殴ったのは目撃者がいるが、メイヤーは1933年にギルバートとの契約を更新しているので、干したとはいえない。

 本当の理由は、『バビロン』のなかでも言われているように、「ただ、彼の時代は終わった」それだけではないか。
『バビロン』には、ジャックがMGMのスタジオでスターたちと一緒にレインコートを着せられて人工雨に濡れながら「雨に唄えば」を合唱させられる場面がある。これはMGMがトーキー時代に対応するためにスターを全員集合させて作った映画『ハリウッド・レヴィユー』(1929)の撮影現場の再現だ。『ハリウッド・レヴィユー』にはストーリーがなく、歌と踊りが続く舞台のレヴュー形式だ。そこからMGMはミュージカルを会社の軸にしていく。

 ジョン・ギルバートをモデルにした『アーティスト』のヴァレンティンも、『雨に唄えば』のドンも、ダンスに活路を見出して、トーキーの時代に生き残る。しかし、ジョン・ギルバートはそうではなかった。

 ちなみに『ハリウッド・レヴィユー』の宣伝文句はAll Singing, All Dancing(みんな歌って、みんな踊る)。『ファイト・クラブ』(1999年)でブラッド・ピット扮するタイラー・ダーデンはカメラに向かって消費に浮かれる大衆への憎しみでわなわなと震えながら「貴様らAll Singing, All Dancingのクズどもだ」と吐き捨てる。

 1936年、アルコールに溺れて体を壊していたギルバートは、心臓発作で亡くなった。38歳だった。ライバルのヴァレンチノがトーキー出現の前年に病死した際には、10万人のファンが葬儀に集まって騒然としたが、ギルバートの葬儀は静かなものだった。

 自分の時代は終わったと察したジャックは「でも、けっこう頑張ったよな」と悲しげに微笑む。そのブラッド・ピットの表情には、ブラッド・ピット自身の映画人生も重ねられて、涙なしに見ることはできない。

町山智浩 × デイミアン・チャゼル「ダンスビートで疾走するハリウッド黄金時代」

映画評論家 町山智浩が読み解く 衝撃と熱狂の大作『バビロン』

『ラ・ラ・ランド』で、ハリウッド・ミュージカルを現代に蘇らせ、史上最年少でアカデミー監督賞を受賞したデイミアン・チャゼル。彼の新作『バビロン』は、生まれたばかりのハリウッドを描く壮大なスケールの野心作だ。
『バビロン』でチャゼル監督が目指したものは何か? 本人に直接インタビューで尋ねてみた。


チャゼル:「当時のハリウッドは開拓時代の西部のように何もかも許される無法地帯でした。それを、この映画で観客に肌で感じてほしかったんです」

 1920年代、テレビもインターネットもなかった時代、ハリウッドが作り出したサイレント映画はエンターテインメントの王様だった。まだ、ほとんど荒野だったハリウッドに、世界中から富と夢と野望を求める男女が押し寄せた。当時のロサンジェルスは人口も少なく、警察権力も小さく、映画の内容にも今のような倫理的な規制(コード)は何もなかった。ハリウッドは映画の中も外も、完全に野放しだった。
 サイレント時代のハリウッドの狂乱を回顧した本がケネス・アンガー著『ハリウッド・バビロン』である。それはハリウッドを、道徳の乱れた罪深き都、と聖書に書かれた古代バビロンに例えた。
 デイミアン・チャゼルの『バビロン』もハリウッドを豪華絢爛、酒池肉林の乱痴気騒ぎとして描く。それはゴージャスでグラマラスであると同時に凄まじくクレイジーでグロテスクだ。
チャゼル:「古き良きハリウッドといわれて僕らの頭に浮かぶのは魅惑的でエレガントで洗練されたイメージです。もちろん、そのイメージはハリウッド自身が作り上げてきたものです。ハリウッド映画は自分自身について語るのが実にうまいから、自分の歴史についても幻想を作り上げてきました。
 でも、その奥底に隠された本当の歴史を覗けば、はるかにおぞましいものが見つかります。その2つを激突させてみたらどうだろうと僕は考えたんです。たとえば、美男美女が豪華なドレスで着飾って集まった立派な豪邸で、セックス、ドラッグ、バイオレンスの宴が繰り広げられる。それこそが黎明期のハリウッドの実態を捉える方法だと思ったんです」

『バビロン』の主人公は3人。映画女優を夢見るネリー(マーゴット・ロビー)、映画に憧れるメキシコ系の青年マニー(ディエゴ・カルヴァ)、そしてサイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)。この3者のドラマが互いに交錯しながら同時進行していく。
 そのような構成を映画史上初めて試みたのはD.W.グリフィス監督の『イントレランス』(1916年)だった。『イントレランス』では、古代バビロン、キリストの受難、聖バーソロミューの虐殺、それに現代(1910年代)のドラマが行ったり来たりしながら同時に進行する。
チャゼル:「グリフィスはご存知のようにハリウッドと映画のパイオニアでした。『イントレランス』のような映画はもう作ることができません。あまりにも現実離れした超大作で、映画の可能性を拡大しました。初めて観た時はただもう驚きで言葉を失いました」
 特にネリーとマニーが初めて映画会社の撮影セットを訪れるシークエンスは凄まじい。サイレント映画なので音はどうでもいい。いくつもの映画が隣り合わせのセットで撮影されている。ネリーはオーディションを受けて、その場で最初の映画撮影が始まる。マニーは壊れたカメラの代用品を求めてロサンジェルスまで車を走らせる。照明が無いので日没までにカメラが必要なのだ。それを待っている間、ジャックは酒を飲み続ける。マニーは間に合うのか? このサスペンスとドタバタ・コメディをチャゼルはリズミカルに編集し、映画それ自体にダンスさせながらスピードを増していく。
チャゼル:「あそこでは『イントレランス』の編集を手本にしました。『イントレランス』は映画編集の極北です。だからやってみたかった。ジャグリング(お手玉)みたいに各シーンを同時に操って、違うストーリーを互いに噛み合わせてリズムを作って、次第にテンションを高めていくんです」
 しかし、そんなサイレント映画の黄金時代にも終わりがくる。初のトーキー(音声)映画、『ジャズ・シンガー』(1927年)で、人気歌手アル・ジョルソンがスクリーンの中で歌って踊る姿に観客は熱狂した。ハリウッドは一斉にトーキー映画、ミュージカル映画になだれ込む。
 その転換期のドタバタを楽しく描いたミュージカル・コメディがジーン・ケリー主演の『雨に唄えば』(52年)だ。ジーン・ケリー扮するサイレント映画のスターは初のトーキー映画に挑戦するが、共演女優の声が悪く、訛もひどくてうまくいかない。そこで、吹き替えでミュージカルに作り変えて大成功する。
 しかし、実際は多くのサイレント時代の俳優が、トーキー映画について行けずに消えていった。
チャゼル:「サイレントからトーキーへの移行はハリウッドで働く多くの人達にとって悲惨な出来事でしたが、『雨に唄えば』はそれを明るく楽しくカラフルなミュージカル・コメディにしました。僕は『バビロン』で『雨に唄えば』の影の部分、滅んでいったサイレント映画の悲惨さを語ろうとしました。でも、同時に映画のロマンと楽しさと美しさを讃えたかった。なぜなら、その矛盾こそがハリウッドそのものだから。ハリウッド自体が光と闇がせめぎ合う矛盾した存在なんです」

 ブラッド・ピット扮するサイレント映画の大スター、ジャックは、実在のスター、ジョン・ギルバート(近日公開のコラムで解説)をモデルにしている。トーキー時代に急激に人気を失っていくジャックを演じるブラッド・ピットが素晴らしい。自分の時代が終わったと悟ったときのブラッド・ピットの寂しい微笑みには胸をしめつけられる。
チャゼル:「ブラッドをキャスティングできて本当によかったです。カリスマ性のある大スターの役を実際にカリスマで大スターのブラッドに演じてもらえて。僕とブラッドは彼の役ジャックについてとことん話し合いました。ブラッドはシナリオに書かれていることを超えて、キャラクターを豊かにするニュアンスを加えてくれました。
ブラッドは、あまりにも細かいディテールから役柄を表現するので、彼がやろうとしていることのすべてはわかりませんでしたが、ただ、ブラッドがジャックを自分に個人的に引き付けて演じようとしたことはわかります。それは今までの彼にはなかったことです。この映画のブラッドには優しさと弱さがあります。特に後半、スターの座から降りていくジャックを演じるブラッドには今までスクリーンで見たことのないものがありました。それを撮影しながら本当に興奮しました」

 マーゴット・ロビー扮するネリーはサイレント時代の人気女優クララ・ボウ(近日公開のコラムで解説)をモデルにしている。ネリーもトーキー映画に挑戦する。慣れない同時録音でコントのようなドタバタの末、トーキー第一作を成功させる。クララ・ボウもそうだった。しかし、突然、1930年代に人気を失ってしまった。ネリーもまたそうだ。いったいなぜ?
チャゼル:「その理由はいくつかあります。ひとつは、ハリウッドにはトーキーの出現と同時にモラルの変化も訪れたからです。それまでハリウッドの売り物だった自由奔放で、怖いもの知らずで、セクシャルなものは、突然、求められなくなりました。1930年代にハリウッドはヘイズ・コード(自主倫理規制)を導入したんです」
 1920年代もハリウッドのサイレント映画は、その性的表現、モラルの乱れをキリスト教団体から激しく批判されていた。しかし、当時はバブル経済でパーティ三昧だった「狂乱の20年代」。性的に自由奔放な女性が映画の中でも外でも求められていた。ところが1929年に株式市場のバブルが弾け、大恐慌が始まった。失業者があふれ、社会はモラル締め付けの時代に入った。ハリウッドもそれを受けて、ヘイズ・コードという倫理規制を作り、映画における性的な表現を自主的に取り締まった。
チャゼル:「ネリーのモデルには何人かいます。たとえばクララ・ボウ。彼女はサイレント時代のセックス・シンボルでした。ところがハリウッドは1930年に入るとセックス・シンボルを求めなくなったんです。ハリウッドから性的要素を排除しようとして、ネリーのような女優は標的になりました。時代が悪かったんです。
 でも、生き残った女優もいます。たとえばジョーン・クロフォードも20年代はセックス・シンボルでしたが、トーキー時代に生き残りました。乱痴気騒ぎや性的な露出を抑えて、シリアスなドラマで重い演技をして、現在考えられている威厳のある女優ジョーン・クロフォードに生まれ変わったんです。
 ネリーはそんな風に順応できませんでした。彼女は頑固で喧嘩腰で……世界と戦おうとしたんですよ。ネリーは内側に怒りを抱えていました。だから時代が彼女の求めない方向に動いた時、彼女は流れに従うことができず、それに逆らおうとしました。それがネリーの転落を決定づけたんです」

『バビロン』では「自分自身よりももっと大きなもの」という言葉が何度も出てくる。時代の流れに乗れずに滅んでいく多くの映画人たちは、「もっと大きなもの」、つまり映画史という巨大なものに身を捧げた生贄たちとして描かれる。
 デイミアン・チャゼルの映画はどれも「もっと大きなもの」に身を捧げる生贄たちの物語だ。『セッション』(2014年)のアンドリュー(マイルズ・テラー)はジャズ・ドラムのために恋人を捨て、『ラ・ラ・ランド』(2016年)のミア(エマ・ストーン)はハリウッド女優、セブ(ライアン・ゴズリング)はジャズ・クラブの経営という夢をかなえるが、結ばれない。『ファースト・マン』(2018年)のアームストロング(ライアン・ゴズリング)は、人類初の月面着陸という使命のため、妻に心を閉ざす。
 彼らはみな、目指すもののために個人的生活、幸福、人生を犠牲にする。そんな物語にこだわり続けるチャゼル監督自身が心配になる。
チャゼル:「大丈夫ですよ(笑)。たしかに、仕事と生活、アートと人生のバランスが取れない人たちの物語が僕は大好きです。なぜなら、目指すものと人生のバランスが取れないと、どちらかを選択する羽目になるから。その選択に魅了されます。それは究極の選択ですから。
 でも、僕自身は私生活では、そうならないように気をつけています。仕事と生活のバランスの取り方も、だんだんうまくなってきました。だから、そんなに心配しないで(笑)」